松風会について
ご挨拶
志野流茶道は、江戸後期に鳥取に伝わり、以来、連綿と完全相伝によって因幡の地に伝わってまいりました。
身分社会における武士階級が主に稽古しておりましたため、現代にそぐわぬ作法も含みますが、それも歴史上の習いとして伝えていきたいと考えております。
一方で、互いに相手への敬意をもって振る舞うことは、現代と変わりません。その「心」を表すために、「礼」を重んじ、「礼」を学ぶのです。「学ぶ」は「真似ぶ」、「習う」は「倣う」から来ているとよく言われる通り、まずはやってみてください。現代の脳科学でも、形が感情を生む、まねることで共感を生む、といったことが明らかになってきております。
茶道は、華道・香道と並んで、生活文化を伝える代表的な稽古事です。カジュアル化し、西洋化した現在においても、日本の伝統的な生活文化に触れることで、現代に生きる学びを得られると確信しております。
「道」と名のつく習いごとは、すべからく人生の「道」に通じ、人格を磨くものです。より好く豊かな人生を送るために、あなたも茶道を始めてみませんか。
志野流茶道 松風会 桂月庵 山根宗己
因幡の志野流 松風会について
志野流は、志野宗信を流祖とする茶道の一派です。
志野宗信は、香道の祖でもあり、今も名古屋で蜂谷家が一子相伝して続いております。
一方、茶道の志野流は、江戸後期に鳥取の池田家分家である東館七代池田仲雅公の主導により鳥取に伝わりました。当時の相伝は完全相伝であり、その後も鳥取では、血筋による一子相伝(世襲制)をとらず、完全相伝で伝えております。また、宗家継承については、合議によって次代を決めております。
松風会の名称は、十二代宗家 久保宗匠の斎号によります。
*現在の活動内容については「松風会の活動について」を
終わった内容については「志野流茶道松風会活動記録」を
地元での案内や報告については「志野流茶道松風会」を
それぞれ御覧ください。
志野流宗家歴代
流祖 志野宗信(松隠軒) 大永2(1522)年 82歳没
二代 志野宗温 参雨斎 弘治3(1557)年 80歳没
三代 志野省巴 不寒斎 元亀2(1571)年 70歳没
四代 蜂谷宗悟 休斎 天正12(1584)年没
五代 蜂谷宗因 一任斎 慶長12(1607)年没
六代 蜂谷宗冨 北翁 万治3(1660)年没
七代 蜂谷宗清 心誉 元禄元(1688)年没
八代 蜂谷宗栄 (揚山軒) 享保13(1732)年没
九代 蜂谷宗先 葆光斎 元文4(1739)年没
十代 多仲 (貞重) (常足庵) 文政9(1826)年没
十一代 大谷 春水 (月下庵) 嘉永2(1849)年 71歳没
十二代 久保宗範 松風斎 元治元(1864)年 69歳没
十三代 中山 山中 月松斎 明治9(1876)年 62歳没
十四代 河田 (直) 松月斎 明治33(1900)年 78歳没
十五代 鵜殿 (長) (和月庵) 明治40(1907)年 74歳没
十六代 岡 (政令) (酔月庵) 大正12(1923)年 71歳没
十七代 藤井宗仙 一葉斎(如月庵) 昭和43(1968)年 88歳没
十八代 藤井宗生 (松風庵) 平成11(1999)年 76歳没
十九代 中嶋宗保 (竹生庵) 平成16(2004)年 80歳没
廿代 今井宗嘉 (松濤庵) 令和元年 引退
志野流茶道の鳥取伝来
鳥取の池田家は、東館と西館と云う分家があります。東館七代池田仲雅は、五代藩主重寛の六男で、東館当主となりました。
仲雅公は、志野流の茶道が気に入り、蜂谷家十代貞重に学ばれ、皆伝を受けられました。また、同門の大谷春水をご自分の茶道頭とし、藩内へ普及しようと、久保宗範に命じ、大谷春水に入門させました。
久保宗範は大谷春水から皆伝を受け、鳥取へ志野流を広めました。宗範は、東館八代仲律の茶道頭で、書の達人としても知られております。
仲雅公は、鳥取に志野流をつなぐべく、蜂谷家に伝わる流祖の御像を写し、鳥取に持ち帰らせ、宗家の象徴と致しました。これ以降、大谷春水を鳥取の宗家初代とし、久保宗範を二代とし、血筋によらぬ完全相伝によって現在まで志野流を伝えております。
*簡単に申しますと、一子相伝とは、家元おひとりが許状を出すことができるというもので、代々その家系を嗣ぐ方が対応します。完全相伝とは、皆伝となりましたら、その方(皆伝者)が伝授をしてよい(許状を出してよい)ということです。
鳥取の志野流の道統の数え方
当初は、鳥取の志野流の宗家として、大谷春水を初代と数えておりました。
しかし、蛤御門の変により、蜂谷家が名古屋に移転されました結果、香道は守られましたが、茶道がかなり変化なさったことから、鳥取の茶道 志野流としては、志野宗信公を流祖(初代)となし、蜂谷貞重を十代と数え、大谷春水を、その流れを継ぐ十一代として数えることになりました。
流祖 志野宗信公の御像について
仲雅公は、志野流を、遠州ほど華やかでなく、石州ほど武骨でなく、町人の千家流ほどわびておらず、ほどよい礼風があるとお気に召されたそうです。
この礼風を鳥取の地に広めんがため、宗家の象徴として、古くから蜂谷家に祀られていた、志野宗信公の御像を写し、鳥取へもたらしました。摩尼寺の霊木秀衡杉を用いて写させたと伝えられております。
そしてこの像をお手本にさらに2体を作らせました。
手本の像は、仲雅公のお手元に、もう1体は予備として森下家に、残り1体を代々宗家で伝えていきました。
しかし、昭和27(1952)年の鳥取大火で宗家継承の像は失われ、手本の像を元に作られましたのが、現在宗家に伝わる御像となります。
森下家に伝わった像は、蜂谷家に元々あった像が蛤御門の変で失われたため、蜂谷家の願いにより名古屋へ譲られました。しかしこちらも名古屋大空襲で失われたそうです。
仲雅公の元に置かれた手本の像は、次第あって英家に伝わったそうです。
英宗幽氏によると、現在、蜂谷家で祀られている宗信像は、昭和13年、宗家伝来の像を同寸大に土で写し、津ノ井窯で焼かせたもので、蜂谷宗由氏の懇望によって譲られたとのことです。
鳥取県西部 淀江町に伝わる茶道志野流
因幡に伝わります茶道 志野流松風会のほかに、鳥取県西部の淀江町にも、十三代中山山中と同世代の石羽宗義(風月庵)がおり、そちらも十三代を称しております。十四代野坂源九郎(葆月斎仲義)、十五代林原準(松友庵相義)と続いているとのことです。
ほかに、『志野流会節』では、十四代河田直の次が島村宗彬(待月庵)となっておりますが、この方は高知県の人と、英氏の著書にありますので、高知県にも伝わっているのかもしれません。
参考)
『志野流会節(しのりゅうかいせつ)』/デジタルライブラリー 愛知県図書館
<参考文献>
『志野流茶道』藤井宗生著、志野流松風会 1982-1983、基礎篇 , 史料篇
『志野流の茶道』英宗幽著、英裕人編、人形のはなふさ発行 1997 上下巻
『山陰茶道史考』山野辺慶一、山陰茶道史考刊行会、1968
『尾張の茶道』熊沢五六,中村昌生,松村静雄編、河原書店、1972